私の歩んだ道
(8)「解放教育」ただす取り組み
86年の土佐山田町長選挙で無名の新人である私が43%もの支持をいただいた選挙結果から、町政が抱えている深刻で困難な同和行政のゆがみをただすことが町民の強い願いであることを痛感しました。
その後、土佐山田町会議員に当選して初めての町議会の朝、議場の自席で資料に目を通していると「差別者集団、暴力集団、日本共産党の諸君おはよう」と言いながら部落開放同盟出身の議員が入ってきました。それから彼らはむき出しの共産党攻撃を繰り返しました。
同時にこの議員は一般質問や日常的な言動で役場の職員を威圧していました。この言動は議会のルール、議員という公職のあり方から許せるものでなく、日本共産党議員団として他会派にも申し入れて、この議員に対する懲罰動議を3回成立させるなど徹底して追及。とうとう「Y議員、前へ」と議長に呼び出されたY議員は「戒告処分」をうけました。これには本人も堪えたらしく、それ以後表舞台での発言は鳴りを潜め「朝のあいさつ」以外の発言はしなくなりました。
町の教育行政にはびこる「解放教育」推進勢力とのたたかいにも取り組みました。教職員、保護者、町民に、ゆがんだ同和行政の異常さと「解放教育」による偏向教育の弊害を具体的に明らかにしていきました。土佐山田人権共闘会議の議長として各種学習会を開き、宣伝物を発行して町民を激励するとりくみをしました。
そんな時、町立山田小学校が93年から3年間、文部省・高知県教委の同和教育推進地域指定を受けたことから徹底した「解放教育」が強められ、「解放教育」に批判的な教職員は異動で排除され「解放教育」に忠実な教師で固められました。
偏向教育は子どもの心をズタズタに。学校が荒れ、最悪の管理職が配置されて、騒がしい子どもを空き教室に連れていっては「暴力」をふるう異常事態になったことから、97年春に22名の集団転校がおこりました。
土佐山田人権共闘会議は「特別な教育ではなく、あたり前の教育を」求め三上満さんを招き「土佐山田町子どもと教育を守る大集会」を山田小体育館で会場一杯の400人の参加者で成功させました。集会の成功は町の雰囲気を変え、「子どもを守り、教育をよくする土佐山田連絡会」が結成されて文部省、知事、県教委、町教委への交渉を展開しました。
2002年3月31日、「同和」特別対策が失効する日を記念して「はばたけ未来へ、同和行政・同和教育からの『卒業式』」を開きました。
「卒業証書 土佐山田町のみなさん、卒業式参加者のみなさん。みなさんは、1965年8月11日の同対審答申によって進められてきました同和対策のすべての課程を終了したことを告知します。今後は、この課程においての積極面と、社会的にあたえた弱点を明確にし、日本国憲法で保証する基本的人権を享有する仲間として、健康で明るいまちづくりに一層のご努力をお願いし、卒業とします」。住民の勇気ある行動が議会と地域の力関係を大きく変えて新しいまちづくりにつながっていきました。
(高知民報06年5月28日付への寄稿です)
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