私の歩んだ道
(6)じんざん保育所守る運動
共同保育所「コスモス」の運営は困難が続きました。運営を安定させるため経営主体を、保育士から保護者に移し、役員体制の充実を図りました。県庁や南国市役所職員の保護者を中心にネットワークを広げ、コスモスの運動を市民に理解してもらうために、手書きの宣伝ポスターを産婦人科、病院などにはりました。
とりくみが功を奏して、コスモスの評判が広がり、南国市から補助金も出るようになりましたが、経営は安定せず、保育士さんの安い給料を少しでも改善するため、バザーでキャベツや車まで売りました。
子どもたちに少しでもよい環境をと園舎移転を3回おこない、市議会や女性団体の支援で市施設を利用するまでに前進しましたが、運動を背景にして認可保育所の乳児受け入れがはじまり、さらに民間保育産業の伸張、少子化の影響もあり、「コスモス」は役割を終えました。
長女が生まれ南国市に住居を移し、ベビーバスケットで送り迎えの毎日でしたが、3人目が生まれる時に両親に保育園への迎えをお願いするために土佐山田町に転居。町立さくら保育所に上の2人を預けました。
朝はたいへんでした。町立保育所の受け入れ時間まで待ってから「コスモス」に末っ子を預けて会社に行くと勤務時間に間にあわない。苦肉の策が開園前にフェンス越しに上の子供2人を園庭に放り込み、裏道を通って「コスモス」へ、そして会社という毎日でした。
さくら保育所では、いつの間にか保護者会長になっていました。全保育所交流のソフトボール大会で優勝し、県大会にも参加。その頃のメンバーとは子供の作ったブローチをつけて集まったことから「ブローチ会」と名付け今でも交流しています。
子供の健やかな成長を願わない親はいませんが、土佐山田町政は失政のツケを子供たちの犠牲で乗り切ろうとしました。1987年、町立じんざん保育所の民営化が強行に持ち込まれてきました。この反対運動は忘れられません。私は「守る会」の事務局で、町の財政を分析をし、民営化の問題点を具体的に明らかにする宣伝物を作成して保護者の交流をすすめました。保護者の家で寝食をともにし、知恵を出し合い励ましあいました。2年間におよぶ運動の結果、町は民営化を断念。最後の数日間は忘れることができません。
町は地元説明会を3日間連続して開き、民営化を押し切る姿勢でした。説明会場には緊張した雰囲気が漂い、町の説明に保護者、「守る会」のメンバーの質問が飛び、説明会を開くごとに参加者は増え続けました。町の民営化必要論は完全に破綻し、町長は、このままでは大変なことになると察したのか、地元の共産党町会議員に仲介の依頼をして民営化を取り下げる意思表示がありました。住民の力の勝利でした。しかし、その場しのぎの言葉では困ると思い「守る会」の会長宅で「覚書」をつくり、町長に翌朝署名してもらいました。
(高知民報06年5月14日付への寄稿です)
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