私の歩んだ道
(4)党専従に「解同」とのたたかい
朝、上の子2人を土佐山田町の公立保育園のフェンスごしに降ろし、末っ子を共同保育所「コスモス」に預けることから始まります。時々迎えを忘れて電話がかかることも。
保育園では保護者会長をやり、子どもたちの健やかな成長を応援してきました。七夕まつりのお化け屋敷ではドラキュラになったり、和太鼓をたたいたり、ちびっ子広場のバックバンドとして演奏したり、子どもたちの抜群の表情にパワーをもらいながらいっしょに成長してきました。
そんな時、出張先の秋田県八郎潟の干拓地で、丹精込めた稲をなぎ倒すように青田刈りする姿をみて愕然としました。全国から入植者を求め、希望をもつて大規模農業化に努力する農業者に、真っ先に減反政策を押し付ける国の政治に憤りを感じました。
入植者が多額の借金を抱え極めて不安定で、国の農政に翻弄されている実態を知った時に、技術屋として良い製品を造れば農業者を応援できると思っていたが「政治を変えたい」との気持ちが強くなり、1986年に日本共産党の要請をうけ専従職員になりました。
最初の仕事は、なんと土佐山田町長選挙に立候補することでした。地元から強い要請をうけて、党公認として立候補を決意したものの、家族、兄姉から強烈な反対の声。安定している職場を辞めて、無謀にも町長選挙に立候補するなどあまりにも破天荒に思えたのも当然だと思います。
選挙の結果は、町民の大きな応援のおかげで「おまん怖いこと通りよったね」と言われるほど現職町長を追い詰めました。この町民の願いに応えるためにその後、土佐山田町会議員を3期勤めました。
土佐山田町では不公正な同和行政を正すことが町民の願いであり、重大な課題でした。
保護者や教職員と学習会をもち共に運動に取り組み、議会でも部落解放同盟の議員の不適切な発言を3回の懲罰動議を提出して追い詰めました。
そんな中の97年、山田小学校で22名もの集団転校がおきました。原因は、保護者や教職員の粘り強い取り組みに危機感を感じた「解放教育」推進勢力が、反対する教職員を山田小から異動で排除し、「解同」系の教職員で固め、児童に「部落民宣言」を強引にさせるなど極端な偏向教育を進めたことにあります。
その結果、学校が荒れ、保護者の不満が爆発。三上満さんを招いた緊急集会では、保護者や町民が体育館を埋め尽くし、「解放教育」克服と、当たり前の教育を取り戻す大きな契機となりました。
(高知民報06年4月23日付への寄稿です)
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