私の歩んだ道
(3)スリランカ単身赴任 そして結婚
会社では開発部に配属され、稲を刈るコンバインの開発に携わったものの、製図力の弱さを痛感。しかしテスト機の製作や試験は楽しいものでした。南の麦から北の稲を追いかけて製品化させる仕事は充実していました。岡山ではビール麦の刈りとり、本当にビールの香りがしました。
社会人になって本格的に民主青年同盟の活動を展開するようになります。総合サークル「ツモロー」結成に参加して会長となり、油絵、水彩画の小サークル「油虫・水虫」や写真、ダンスそして、エレキバンド。定期的な総会は総勢60人の会員が自分の作品を展示し、生バンドでダンスを踊る自己主張の場に。バスツアーやキャンプで交流を深め、今でも電話一本で集まる生涯の友ができました。
がむしゃらに活動していたら、いつの間にか民主青年同盟の香長地区委員長になっていました。選挙の宣伝をやり過ぎて会社から「注目」される存在となったためか、スリランカ共和国に長期(数年間)出張を命じられてしまいました。労働組合青年婦人部の仲間が大々的な壮行会を開いてくれ、英会話教室で付け焼き刃の勉強をして、いざ出発。民青やサークル、そして会社の多くの仲間が空港へ駆けつけてくれました。飛行機の機内では涙がとまりませんでした。
スリランカは日中は50度にもなる暑さ、コブラと大トカゲ。カレーライスは顔から汗が吹きでる超激辛。イグアナの淡白な肉はすごくおいしかった。
情勢ボケしないように当時交際していた女性から定期的に日本の新聞の切り抜きを送ってもらい、『資本論』を読破。学習と仲間の応援が大きな支えとなりました。
帰国後はその女性と結婚して3児の父親に。多い年は年間200日以上の出張がある技術屋の仕事の一方で、「産休明けから公立の保育所でゼロ歳保育を」の願いを実現する運動にとりくみ、南国市に共同保育所「コスモス」をたち上げ、事務局長として経営にあたることになりました。子供の数が増えると保母さんが足りず、やっと受け入れ体制が整ったら子どもの数が増えない。経営は苦労の連続で、共働きの仲間たちと泣き笑いの毎日が続きました。
(高知民報06年4月16日付への寄稿です)
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