私の歩んだ道
(1)毎日山ザルのように
私が生まれたのは1952年(昭和27年)の冬。徳島県との県境、三嶺のふもとの物部村久保(現香美市物部町)から長岡村(現南国市)に移住して農業を営んでいた両親のもとに5人兄弟の末っ子として生まれました。
当時は、まだ地域の協同で農業を支えていた時代で、苗を引き、田植えする「早苗さん」に、苗床の作業から縄張り、苗の配布など教えてもらい、お風呂からごはんまでいろいろとお世話になった記憶があります。脱穀したワラの山に、トンネルを抜いて「すみか」ごっこをしたり、田んぼで棒高跳びをして遊んでいました。
しかし、冷害と商売の失敗で田畑を手放すことになり、土佐山田町(現香美市土佐山田町)に転居して借家住まいするようになりました。そんな中でも両親は、長岡村の幼稚園へバスで通わせてくれました。帰りのバス代はアイスクリームに消え、車掌さんの機嫌をとってただ乗りしたり、いとこと悪さをしながら山田まで歩いて帰りました。
山田小学校の、6年間で思い出深いのが「東西対抗チャンバラ合戦」。町の北部の八王子宮で「2B(花火)」を投げつけたり、「捕虜」をつかまえてハゼを塗りつけたり。
A組で参加したのは私だけ。職員室に立たされました。旧日本軍の大砲の弾を自転車に乗せて運んで隠していたことも。友人の父親が警官で、見つかってしまい没収されました。
夏は物部川に浸かり背中を曲げ「チャン」(鉄砲型の銛)でゴリ(ハゼ類の淡水魚)を突いて戯れ、冬は山を駆け巡り、枝ぶりの良い樹に「すみか」を作って「ターザン」、「こぶて」(野鳥を捕まえる罠)でツグミを獲るなど、まるで山ザルのような毎日でした。こんな悪ガキの時に知り合った同級生とは、今でも年に数回、同窓会を開いています。
両親の頑張りで山田町内に一戸建ての家ができ、私の部屋も確保されました。このころから逃げ足の速い走りが、役に立ち始めます。
(高知民報06年4月2日付への寄稿です)
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