1994年、高知に戻った私は妻の実家の須崎市上分の家に同居。義母とともに6人暮らし。サザエさん一家でいえばマスオさん状態です。
比例代表四国ブロック選挙と小選挙区高知3区の重複候補として四国行脚の旅が始まりました。
無名の私を四国と高知の党組織、後援会のみなさんがあたたかく迎えてくれたことは本当にうれしかったです。
また高知県党の労働組合部長、青年学生部長を務め、青年運動、労働運動の前進にも力を尽くしました。
無数に開いた小集会は大きな威力を発揮しました。
忘れもしない最初に開いた佐賀町での小集会。「共産党の名前が悪い。日本清流党にしたらどうか」が初質問でした。「党名を変えるのは国民に顔向けできない悪いことをしたときですよ。幸せを共に産み出す、それが共産党です」。こんなやりとりが四国各地で続きました。
また、栗原透さん(故人・元全国革新懇代表世話人)や西岡るり子さん(元参議院議員)、有沢宗重さん(故人・元高知市議会議長)など広範な方々が平和とくらしを守るために「山原を」「日本共産党を」と立ち上がってくださいました。
96年10月20日は歴史的な1日となりました。前日マスコミから次々と電話がかかってきます。「開票当日の夜はどこにいますか」、「3区の結果を見てから山原事務所にいきます」。
この時は、明日国会議員に当選する自分を想像することはもちろんできませんでした。
夜10時過ぎ、高知1区での山原さんの当選が決まりました。かたずを呑んで見守っていた多くの支援者の喜びが大爆発。山原さんは「秋月や満天の星きらめきて」と高らかに勝利宣言。翌日の「高知新聞」が「流れ星とは違い北極星は動かなかった」と論評したことはあまりにも有名です。
数時間後、四国比例の得票が22万票を超え、7番目に私が滑り込みました。歴史のページを開いた瞬間でした。山原さんはこの勝利を「四国いま嶺の紅葉に彩られ」と詠みました。
初議員団総会。「あなたが春名君か」と声をかけられます。「歴史を揺るがすたたかいで国会に送り出していました。選挙を通じて聞いた国民の声、それを実現する党の綱領、そしてそれを体現する先輩議員のみなさんという三つの宝に依拠し、懸命に努力、成長します」とあいさつしたことを昨日のように思い出します。
写真―山原さんとともに初当選(96年10月20日)
春名なおあき
※コメントは、スパム対策のため、一度内容を確認したうえで公開させていただいています。公開まで時間がかかるときもありますが、ご了承ください。
コメントを残す