05 東京で必死の生活と活動

⑤緒方参院議員、大山とも子都議と新宿で演説 高知県党書記長だった浦田宣昭さんから「春名君、東京で民青を大きくするため働いてくれ」と要請を受けたのが29歳のときでした。
 幼い2人の子どももいたので単身赴任するわけにもいきません。妻の協力のもと4人で上京、高知を離れ東京大田区で2DKのアパート暮らしに入りました。一か月の家賃は10万円強、東京でくらすのはたいへんなことです。
 妻は港区の保育園に勤務。子どもの保育園への送り迎え、家事はできるだけ分担しました。家事は「気がついたほうが率先しておこなう」が私たちの決めごとですが、妻にいわせると「そもそもあんまりうちにいないでしょ」。
 夕方、渋谷の民青本部から40分ほどかけて帰り、子どもを迎えて食事づくり。妻が帰ってくるかこないかのうちにまた本部に戻って仕事。夜12時前後の最終電車で帰宅するというパターンもしょっちゅうでした。得意料理はカレー、シチュー、焼肉、焼きそば。
 本部では中央常任委員、副委員長を5年務めました。当時の委員長は和田一男さん(現・党中央委員)から川田忠明さん(現・党国民運動委員会)。当時の県委員長は、愛媛県が林紀子さん(現・愛媛県党委員長)、香川県が川村ただしさん(現・香川県党書記長)、徳島県が上村秀明さん(現・徳島県党委員長)など。ともにがんばってきた仲間が党本部や各地の党組織、大衆団体でたたかっている姿をみると本当にうれしいですね。
 私は平和運動、青年労働者対策、青年戦線統一、学習教育部などを担当、またしょっちゅうオルグにでかけ全国をかけめぐり、各地の青年運動の前進に力をつくしてきました。
 原水禁世界大会の青年集会(ピースジャム)が、いま大きな盛り上がりを見せていますが、私が平和運動を担当した時代に「ピース・アクション」という青年集会を持つことに成功、それが今日の青年大集会の奔りとなりました。
 中央勤務を終え、34歳(1994年)で民青同盟を卒業。と同時にまたまた浦田さんからの電話。「山原さんを当選させるために、高知に帰って四国の比例候補でがんばれ」。私は「光栄なことです」と即刻決断しました。5人になっていた家族ともども、5年ぶりに高知に戻ってきました。

写真―新宿で緒方靖夫4参議院議員(当時)と街頭演説

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