岡山県立林野高校に入学した私は、高校時代から親元を離れ、下宿生活に入りました。
林野高校には立派な日本民主青年同盟(民青同盟)の班が存在していました。その名も「桃太郎班」。約800人の生徒の中で最高時は1割近くの同盟員がいました。
私は1年生の秋に加盟。きっかけは美作地区高校生部落問題研究集会に参加したことでした。ちょうど私が入学する直前、お隣の兵庫県で「八鹿高校事件」が起こったのです。
なぜこんな暴力事件になったのか、高校生自身が話し合い、部落差別への怒りや苦しみを報告する姿をみて「すごいなあ」と思ったのです。
一緒にこの集会に参加していた私の親友・神原郁己君(京都で党議員、専従として活躍)は「そりゃはいらんといけん」とさっさと加盟。悩んでいた私も「差別はなくさんといかん」と正義感が頭をもたげ「えいや」と加盟しました。
同盟員が中心になって生徒会活動や文化部交流会などのびのびと高校生活をおう歌しました。
部活動ではバスケットボール部でがんばりました。胴長短足の体型は、この時にバスケットを懸命にやりすぎたためと今も思っています。
しかしわが部は弱かったですね。地区大会の2回戦、3回戦で敗退するのが常。新人戦のときだけ初めて地区大会で上位に入り、県大会に参加しましたがコロっと負けました。部長だった宇谷俊二先生は、いまだにバスケ現役で美作地区革新懇の役員もされており、私の政治的目覚めを引き出してくれた恩師です。
気になる女の子もいましたが、「つきあってください」という勇気はかけらもなく、遠くで憧れていただけでした。
高校3年生になると受験一色。3人の兄弟のうち、大学に行かせてもらえたのは私だけ。けっして裕福でない家計は痛いほどわかっていましたので、国立大学に入れなかったらどうしようとあせりました。一時だけ猛勉強して、なんとか高知大学教育学部にはいることができました。
写真―高校2年の時「ぼくのひこうき」を踊る。
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