
「残存能力」?「残存」とは「なくならずに残っていること」 (広辞苑)。先日の国会で日本共産党の小池晃参議院議員が後期高齢者医療制度の問題点をただしたのに対して舛添厚生労働大臣は、「75歳以上は、健診による予防効果よりも、大切なのは、本人の残存能力をいかに維持するかだ。後期高齢者医療制度は、死に直面した人に、きめ細かい手当てをするためのものだ」と居直りました。
これまで全国どこでも毎年「敬老会」を開き、長寿を祝ってきたのではないでしょうか。敬老とは「老人をうやまうこと」。敬うとは「相手を尊んで礼を尽くすこと」。後期高齢者医療制度のどこに「敬い」、「尊ぶ」心があるでしょうか。
そもそも政府は、高齢者の「特性」として「(1)治療に時間も手間もかかる」「(2)認知症も多い」「(3)いずれ死を迎える」などと規定して、差別医療を押しつけようとしているのです。舛添厚労大臣の「残存能力」発言もこの立場に立ったもので、高齢者の誇りも生きる意欲をももぎとるものです。
先日、高知市内の説明会で、参加者の一人が「高貴と言われるほど誉れ高き人生をおくった訳ではない」と「高貴」と「後期」を間違えて――「老後を応援する制度と思っていた」と言ったそうです。この制度に対する痛烈な批判ではないでしょうか。
すべての人々が加齢とともに体力など衰えてくるのはあたり前で、それには個人差もあります。それを一律に年齢で「線引き」することは、およそまともな人権感覚を持っているとは思えない「鬼の所業」です。以前、長寿を悪者扱いして「年寄りに金をつぎ込むのは、枯れ木に水をやるようなもの」といった自民党の本質がここにも表われています。
「長生きを厄介者にする風潮は許せない。早く死ねというならしわく(しつこく)生きてやる。そして“自公政権の終焉”を見とどけてやる」と開き直ってがんばる時。私は、人の道をふみはずした後期高齢者医療制度を断じて許さない。即刻、中止を!
(高知民報08年03月30日付への寄稿です)








※コメントは、スパム対策のため、一度内容を確認したうえで公開させていただいています。公開まで時間がかかるときもありますが、ご了承ください。